
声にならない別れ
水槽の中は、いつもと同じ静けさだった。
ぶくぶくと小さな泡が上がり、ガラス越しに部屋の天井が揺れて見える。
けれど今日は、朝から人の足音が多かった。
段ボールが積み上がり、家具が少しずつ運び出されていく。
誰も水槽の前では立ち止まらない。
僕は小さな金魚だから、声を出すことも、視線を送ることもできない。
ただ、ここからすべてを見ている。
この家に来た日を、僕は覚えている。
小さな手が水槽を指差し、「この子がいい」と言った。
それが、この家族の始まりだった。
笑い声の多い家だった。
食卓を囲む時間も、テレビの音も、誰かのため息も、水を通して伝わってきた。
人は気づかないが、音は水の中まで届く。
特に、言葉にならない気配ほど、よく分かる。
引っ越しの理由を、大人たちは声をひそめて話していた。
「仕方ないよね」という言葉が、何度も繰り返される。
子どもは黙って床を見ていた。
その沈黙が、今日一番大きな音だった。
昼過ぎ、最後の段ボールが運ばれた。
部屋は広くなったのに、空気は重く感じた。
水槽だけが、元の場所に残されている。
「これ、どうする?」
誰かが、ようやく僕の存在を思い出した。
大人は困った顔をして、しばらく考える。
「新しい家、狭いしな……」
その言葉のあと、子どもが顔を上げた。
何か言いかけて、結局、何も言わなかった。
僕は泳ぎながら、その横顔を見ていた。
初めて餌をくれた日。
水換えを失敗して慌てていた日。
ガラス越しに、たくさんの時間を共有してきた。
人が何かを置いていく瞬間って、きっと似ている。
大切じゃないからではなく、大切すぎて、持っていけないことがある。
僕はそれを、知らないふりをして水面をなぞった。
その“残る気持ち”は、たぶんひと言小説「香る手紙」💌✨みたいに、見えなくても部屋に残る。
夕方、ドアが閉まる音がした。
家族は全員、外に出た。
誰も振り返らなかったわけじゃない。
ただ、振り返る理由が多すぎたのだと思う。
静かになった部屋で、泡の音だけが続く。
僕は水槽の中で、いつもよりゆっくり泳いだ。
ここが、今日で終わる場所だと知りながら。
夜、管理会社の人がやってきた。
水槽を覗き込み、小さく息をつく。
「置いていかれたんだな」
その声は、驚くほど優しかった。
翌日、僕は別の水槽に移された。
知らない天井、知らない音。
それでも、不思議と怖くはなかった。
人も動物も、環境が変わると心が追いつかない。
だからこそ、僕は“見ていた時間”を抱いて泳ぐ。
それは、ラッコのリロくんが遺した波紋のように、あとから静かに広がっていくものだと思う。
人は引っ越すたびに、たくさんのものを選び、たくさんのものを置いていく。
選ばれなかったからといって、存在しなかったわけじゃない。
水槽の中から見ていた家族の時間は、確かにそこにあった。
僕が覚えている。
声に出さない別れも、言えなかった気持ちも、すべて。
泡は今日も、静かに上へ昇っていく。
忘れられたのではなく、思い出になったのだと、僕は思っている。
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