
「夏の通り道」
降り立った無人駅は、どこか懐かしい匂いがした。
コンクリートのホームに足をつけると、蝉の声が耳を満たす。
一両だけの電車が去り、辺りは静寂に包まれた。
ホームの先には、草むらに埋もれた古い待合室があった。
扉のガラスは曇り、木製のベンチは時の流れを物語っている。
僕はそこに腰を下ろし、持ってきた水筒の冷たいお茶を口に含んだ。
視線を上げると、ホームの端に小さな看板が立っていた。
「夏の通り道」。
その駅名が、どこか詩的に響く。
ふと、記憶がよぎる。
少年の頃、この駅に来たことがあった。
両親と一緒に、親戚の家を訪れるために降りた駅だった。
線路を挟んだ向こう側には、小さな駄菓子屋があった。
そこで買ったラムネの甘さと、蝉の声が絡み合って記憶に残っている。
だが、今回この駅に降りたのは偶然だ。
仕事の出張先が予想より早く終わり、ふと乗った電車が止まったのがここだった。
辺りを散策してみた。
線路の向こう側にあった駄菓子屋は、今ではただの空き地になっている。
草が揺れ、風がそれをなぞるように吹き抜ける。
もう一度ホームに戻り、ベンチに座る。
時折吹く風が、暑さを少しだけ和らげてくれる。
その時、不意に感じた。
この静寂が、まるで僕の心を写しているようだと。
少年だった僕も、いまでは大人になり、日々の忙しさに追われている。
けれど、この無人駅の静けさは、あの日の夏をそのまま閉じ込めていた。
電車が再びホームに滑り込んできた。
僕は立ち上がり、最後に駅名の看板を見つめた。
「夏の通り道」。
その文字は、まるで忘れていた記憶の扉をそっと開く鍵のようだった。
僕は微笑みながら電車に乗り込んだ。
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