
「無音の旋律」
祖父が小さな部屋で向き合うのは、古びたアップライトピアノだった。
鍵盤の白も黒も色褪せ、何度も触れられた痕跡が光る。
だが、そのピアノは音を出さない。 数十年前に壊れたのだと母から聞いた。
それでも祖父は、毎日欠かさずその前に座る。
目を閉じ、指先を軽やかに動かしながら、まるで大勢の聴衆に囲まれているかのように演奏を続ける。 部屋にはただ、指が鍵盤に触れる微かな音だけが響いている。
「何を弾いているの?」 幼い頃の私が尋ねると、祖父は微笑んで答えた。
「心の中の音楽だよ。聴こえるかい?」
その言葉の意味が、当時はよくわからなかった。
だが大人になった今、祖父の姿を思い出すたびに、その答えの重みを感じる。
祖父の指先から生まれる音楽は、他の誰にも聴こえない。
でも、それは彼自身にとって、かけがえのない旋律だったのだろう。
ある日、祖父が天国へ旅立った後、私はあのピアノの前に座った。
鍵盤に触れてみても、やはり音は鳴らない。
だが、不思議なことに、心の中に微かな旋律が流れ始めた。
それは、祖父が毎日奏でていた音楽だった。
その旋律が、静かな部屋を満たしていくような気がした。🎶
祖父が遺したのは、目に見える遺産ではなく、心に響く音楽だったのだ。
私はそっと目を閉じ、祖父の旋律に耳を傾けた。
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