
記憶をなくしても、心が覚えていた🖤
彼女と再会したのは、僕が就職した年の春だった。
社会人一年目、初めての部署に配属されて数日後。
「今日からこちらでお世話になります」と挨拶した女性の顔を見て、息が止まった。
高校時代の恋人──けれど、彼女の目に僕は映っていなかった。
事故で記憶を失い、しばらく休職していた彼女が、復職後、この部署に配属されたと聞いた。
彼女は「はじめまして」と微笑んだ。
僕は何も言えず、ただの同僚として接するしかなかった。
それでも、ペンを回す癖や、少しうつむいて笑う仕草。
ふとした瞬間に見せる表情は、忘れられなかった彼女のままだった。
ある日、通勤中の駅で、彼女が足を滑らせて踊り場へつまずくのを目にした。
小さな悲鳴とともに、かがみ込むような姿。
近くの通行人がすぐに手を差し伸べ、彼女は軽く礼を言って、すぐに立ち上がった。
僕は階段の上から、その様子をただ見ていた。
一歩、踏み出せなかった。
助けに行けば、過去がにじみ出る気がして。
何より、彼女の“今”を壊してしまうのが怖かった。
彼女が立ち去ったあと、踊り場の隅に黒く光る小さなヘアピンが落ちていた。
僕はそれを拾ってカバンにしまった。
──高校の卒業式の日に、僕が彼女に贈ったものと、まったく同じだった。
返そうと思った。
でも、「どうしてこれを?」と聞かれたら答えられなかった。
彼女が今の生活を送るうえで、過去が不要だとしたら……。
無理に思い出させるのは、ただの自己満足じゃないか。
そんな迷いが、ずっと心の中にあった。
そして数日後。
雨上がりの昼。
出先からの帰り道、駅の階段で彼女の姿を見かけた。
傘をたたみながらスマホを確認していた彼女の体がふらつく。
その瞬間、僕の中の何かが反応した。
「危ない」
気づけば、彼女の腕を支えていた。
驚いたようにこちらを見る彼女の足元で、カバンから“あのヘアピン”が滑り落ちた。
カラン、と音を立てて、濡れた床を転がる。
彼女はしゃがみ込んでそれを拾い、じっと見つめた。
「……これ」
手の中のヘアピンを見つめる彼女の顔に、わずかに戸惑いが浮かぶ。
僕はそっと言った。
「数日前、君が階段でつまずいたとき、そこで拾ったんだ。
ずっと返したくて……でも、タイミングがわからなくて」
彼女は何かを探すように、ピンをゆっくりと指先でなぞる。
「……なんとなく、覚えてる気がする」
小さな声だった。
「高校生のとき、誰かに『似合うよ』って……言われた気がするの。
そのときの髪型まで、なぜか浮かんで……」
僕は黙ってうなずいた。
「それ、僕があげたんだ。卒業式のあとに」
彼女の目が、ゆっくり僕に向けられる。
「わたし……あなたのこと、知ってたの?」
「うん。高校の頃、君と──付き合ってた」
彼女の目元に、涙がにじんだ。
「そっか……どうりで、最初に会ったときから、懐かしい気がしてた」
そして、ゆっくりと笑う。
「また……ここから、始めてもいいのかな」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
「もちろん」
彼女はピンを髪に差し、少し照れくさそうにうつむいた。
雨に濡れた駅の風景の中で、彼女の髪だけが、ひときわ鮮やかに輝いていた。
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