
別れと希望の小さな灯
老犬ホーム「ひだまりの家」は、静かな丘の上に建っている。
長い年月を大切な家族と過ごし、今はここで穏やかな時間を送る犬たちのための場所だ。
白い毛が雪のように柔らかい老犬・ポチは、その中でも特に皆に愛されていた。
ポチは十八歳。
足取りはゆっくりで、耳もほとんど聞こえない。
けれど、誰かがそっと体を撫でると、小さく尻尾を振る。
その仕草だけで、空気が柔らかくなるのだから不思議だった。
高校生の美優は、毎週土曜日にボランティアとしてここを訪れていた。
学校帰りに寄り道をして、散歩の手伝いやブラッシングをする。
ポチは特に美優のことが好きだったようで、彼女が姿を見せると、ゆっくりと立ち上がって迎えに来る。
その健気な姿に触れるたび、胸の奥が温かく震えた。
ある日、施設長から静かに告げられた。
「今週末は、ポチの誕生日なんだよ。おそらくここで迎える最後の誕生日になるだろう。」
その言葉が落ちた瞬間、美優の胸はぎゅっと縮んだ。
老犬が季節を一つ越えるということは、簡単なことではない。
会うたびに、ほんの少しずつ弱くなっていく姿。
現実を受け止めきれないまま、それでも美優は決めた。
「ポチのために、忘れられない誕生日をつくろう。」
その週の土曜日、美優は他のボランティアの仲間と小さな誕生日会を準備した。
犬用のやわらかいケーキ、折り紙で作った帽子、そしてみんなのメッセージカード。
入居している老犬たちの首輪にも小さなリボンを結び、施設全体が、今日だけは特別な日を迎えるために温かく色づいた。
ポチが部屋に入ってくると、みんなで声を重ねる。
「おめでとう、ポチ。」
ポチはゆっくりと顔を上げ、みんなの方へ視線を向けた。
耳には届いていないはずなのに、その瞳はまるで笑っているようだった。
ケーキを前に置くと、ポチは慎重に一口だけ、そっと口に運んだ。
それだけで涙を堪えられない人が何人いたか分からない。
美優もその一人だった。
こぼれないように噛み締める涙が、頬を静かに温めた。
誕生日会が終わったあと、美優はポチの隣に座り、そっと体を寄せた。
ポチは美優の肩に頭を預け、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸はまるで、穏やかな午後の昼寝のようだった。
その姿を見て、美優はふと、最近読んだ物語を思い出した。
命を見送る瞬間を静かに描いたひとこと小説「虹の橋の下で」だ。
あの物語の優しい余韻と重なる気がした。
夜になり、帰る前に美優はもう一度ポチのところへ向かった。
毛布の上で眠るように横になり、穏やかな表情のまま目を閉じている。
「ありがとう、ポチ。」
そっと囁くと、ポチの尻尾が一度だけ、静かに揺れた。
それが、確かに応えてくれた最後の合図だった。
翌朝、施設には静かな空気が流れていた。
ポチは夜のうちに旅立っていた。
スタッフもボランティアも、みんな涙をぬぐった。
けれど、その涙は悲しみだけのものではなかった。
温かく、優しい涙だった。
メッセージカードの中央には、美優が書いた言葉があった。
「あなたは、たくさんの人を幸せにしたよ。」
その言葉を見つめながら、美優は心に決めた。
「いつか動物看護師になろう。」
命と向き合い、最後まで寄り添える人でありたい。
ポチが教えてくれた優しさを、これからもつないでいくために。
窓の外には冬の風が吹いていた。
けれど空は驚くほど澄んでいて、光はまっすぐに降りそそいでいた。
まるでポチが、「大丈夫だよ」 と言っているようだった。
その光景は、美優にとって忘れられないものになった。
いつかまた、どこかで会える。
そんな予感さえ抱かせるほど、静かで温かな再会の気配があった。
ふと、美優は別の物語の一節を思い出した。
再会の奇跡を描いたひとこと小説「月夜の再会」だ。
その夜明けのような希望が、今、胸の中にそっと灯った気がした。


コメント