
ツムギのひそかな行動
僕がツムギを迎えたのは、初夏の蒸し暑い日のことだった。
会社帰りに寄った保護動物の譲渡会で、小さく丸まったハリネズミが目に留まった。
ほかの子たちがキビキビと動く中、ツムギだけはじっと丸まったまま動かない。
スタッフさんが「少し臆病ですが、とても優しい子ですよ」と教えてくれた。
その言葉に、なぜか胸の奥がふっと温かくなり、気づけば譲渡の申し込み書に名前を書いていた。
家に連れて帰っても、ツムギは丸いまましばらく動かなかった。
指先でそっと呼びかけても、針がふわりと揺れるだけで、ほとんど反応を示さない。
“無理に距離を縮めようとしなくていいよ”
そんなふうに語りかけるように、僕はケージの横に静かに座り続けた。
ツムギに少し変化が出たのは、迎えてから一週間ほどたった頃だった。
夜中にふと目を覚ますと、ケージの中で小さな影がそろそろと歩いている。
音を立てないように少し近づくと、ツムギが水を飲んでいた。
暗がりの中でも、その姿がなんだか誇らしげに見えた。
保護された小さな命と暮らす物語を集めた「サステナブル・ペットライフ 〜小さな命と、未来の約束〜」という短編を以前読んだことがある。
そのときは、どこか遠い世界の話のように思っていたけれど、今は自分の部屋の一角で、その“未来への約束”のような時間が静かに始まっている気がした。
それから、ツムギが“夜にだけ活発になる”という事実を知った。
昼はまん丸で眠り、夜は探検家のように歩き回る。
この子の世界は、どうしてこんなにも静かで、優しいのだろうと思った。
ある晩、帰宅すると、机の上に置いてあったメモ帳がいつもと違う向きになっていた。
風で飛ぶような距離ではない。
ページをめくってみると、数日前に悩みを書いたページが開かれていた。
仕事の人間関係で落ち込んでいた時期で、誰にも言えず書き込んだ言葉だった。
偶然だと思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが残った。
翌朝、玄関の小さな木の置物が、いつもより前へ出ていた。
片付け忘れた覚えはない。
“ツムギが動かしたのか…?”
そんな考えが浮かんだが、すぐに首を振った。
ハリネズミがそんな器用なことをするだろうか。
でも、夜のツムギはときどき、信じられないほど静かに、思いがけない場所へ動いていた。
日が経つにつれ、“ツムギの痕跡のようなもの”が増えていった。
読みかけの本が開いていたり、枕元の小物が少し動いていたりする。
どれも本当に些細な変化だったが、不思議と心が軽くなる瞬間が多くなった。
まるで彼が、見えないところでそっと背中を押してくれているようだった。
そんなある夜、疲れ切って帰った僕はソファに沈み込んだまま動けなくなった。
胸の奥がきゅっとして、深く息を吐くしかできなかった。
ふと目を閉じると、足元で小さな音がした。
ゆっくり目を開けると、ツムギがソファの足元まで歩いてきていた。
ケージの扉を閉め忘れていたことに気づいたが、それ以上に驚いたのは、ツムギが僕の靴のつま先にそっと鼻先を押し当てたことだった。
ツムギはほんの少し震えていた。
怖かったのだろう。
それでも、僕のそばに来てくれた。
小さな身体で、必死に“気づこう”としてくれたのだ。
「ツムギ…ありがとう」
その声に反応するように、針がふわりと揺れた。
まるで “だいじょうぶだよ” と伝えてくれているようだった。
その夜、ツムギは僕の足元から離れなかった。
胸の痛みがほどけるように消えていき、心がゆっくり呼吸を取り戻していく。
ふと、別れたあともどこかでつながり続ける絆を描いた「ひとこと小説「虹の橋の下で」」という物語を思い出した。
あの物語のように、言葉がなくても、心はちゃんと届くのかもしれない。
翌朝、ソファ横のメモ帳は、落ち込んだ日に書きかけたページが開かれていた。
ツムギが鼻で押しただけかもしれない。
でも僕には、それが“君ならきっと大丈夫”と言われたように思え、胸が熱くなった。
ツムギは今日も昼間は丸まって眠っている。
けれど僕は知っている。
夜のあいだ、この小さな相棒がそっと支えてくれていることを。
ツムギがくれた小さな奇跡は、僕の日常を静かに変えてくれた。
これからも、ツムギと一緒に穏やかな夜を迎えていきたい。
たとえ言葉がなくても、心はきちんと伝わるのだと信じながら。
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