
野良猫の姿を見かけなくなってから、町では道に迷う人が増えた。
地図アプリを開いても、目印にしていた角を通り過ぎてしまう。
何度も歩いたはずの通学路や通勤路で、足が止まる人がいた。
それは方向感覚の問題ではなかった。
この町では、猫がいなくなる前から、人の記憶が少しずつ薄くなっていたのだ。
そう考えると、あの日から町の空気が少しだけ軽くなった理由も説明がつく。
最初の異変は、私自身だった。
「ここ、こんなに長かったっけ」と、いつもの道が遠回りに見えた。
同じ場所を二度曲がり、同じ自販機の前で三度立ち止まった。
そして気づく。
自販機の横に、いつも茶色い猫が座っていたことを。
思い返せば、この町の猫たちは何も教えなかった。
ただ、そこにいた。
人が迷ったとき、立ち止まったとき、視線の先に静かに存在していただけだ。
その「いる」という事実が、世界の輪郭を保つ目印になっていたのかもしれない。
公園のベンチで、老人が立ち尽くしていた。
「この先に何があったか、思い出せなくてね」と彼は言った。
以前なら、足元で丸くなっていた白い猫が、黙って進む方向を示してくれた場所だ。
示してくれたというより、そこにいるだけで、こちらの心が決まったのだろう。
商店街の八百屋では、若い店主が戸惑っていた。
仕入れの順番を間違え、常連の顔が思い出せなくなる。
「猫が来なくなってから、時間の感覚がずれてる気がするんです」と彼は小さく笑った。
笑いながら、目の奥だけが真面目だった。
私は石段の前に立った。
以前、白い猫がいつも座っていた場所だ。
ここに来ると不思議と迷わず帰れた。
その理由を、ようやく言葉にできそうで、できない。
猫がいなくなった理由を、誰も知らない。
ある日を境に、ふっと消えたように姿を見せなくなった。
餌を置いても、鳴き声を探しても、応答はなかった。
この町の入口だけが少し歪んで、出入りするものの数が合わなくなったみたいに。
それでも、町は日常の顔をやめない。
信号は変わり、店は開き、笑い声もある。
ただ、ところどころに「余白」が増えた。
思い出せない一瞬。
言葉にならない違和感。
進むべき方向が、少しだけ曖昧になる感覚。
「猫がいなくなった理由」ではなく、「猫がいた意味」をもう少し追いかけたい方へ。
まずは第1話と第2話を読んでおくと、余白の手触りがより鮮明になります。
気になったところから、お好きな順に読んでみてください。
以前、この町で起きた最初の話を読み返すと、今の空気が少しだけ整理できる。
野良猫が消えた町で人だけが迷子になる理由。
そして、余白が広がっていく気配は、すでに第2話でも描かれていた。
野良猫が消えた町で人が迷う理由 第2話。
夕暮れ、私は石段を下りた。
すると一瞬だけ、視界の端に動く影が見えた気がした。
確かめようと振り返ったが、そこには何もない。
それでも不思議と、足は迷わず家へ向いた。
猫が残した余白は、穴ではなく、道しるべの跡なのかもしれない。
消えたものを埋めるのではなく、消えたことを覚えているための形。
私はその形をなぞるように、今日も町を歩く。
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小説「野良猫が消えた町で人が迷う理由 第3話 記憶の余白」の後日談と続編は、noteにて公開しています。
石段の前で見えた“影”が何だったのか。
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