
手を振れなかった春に、ようやく追いついた🌸
平日の夕方、駅前の横断歩道で、僕は足を止めた。
雨粒が静かに傘を叩くなか、信号待ちをしていた前方の女性がふと目に入った。
グレーのコート、長い髪、そしてあの傘。
深緑の布地に、持ち手の根元にだけ入った小さな白い刺繍──。
あれは、大学四年の春、僕が千紗に贈ったものだった。
見間違いかもしれない。
でも、見間違いであってほしくなかった。
信号が青に変わった。
僕は足早にその女性の横に並び、思わず声をかけていた。
「……千紗?」
🌧
彼女は驚いたようにこちらを見て、ほんの少し笑った。
「久しぶり」
たったそれだけで、時間が逆戻りしたような気がした。
すぐ近くのカフェに入り、濡れたコートを脱ぎながら、僕たちはぎこちない会話を交わした。
千紗は、卒業直前に家庭の事情で地元に戻ったこと。
急すぎて、きちんと別れの言葉を交わす余裕がなかったこと。
連絡もできないまま時間だけが過ぎてしまったこと。
「東京に引っ越してきたの。今日が、その一日目」
「荷解きしてたら、この傘が出てきて。……久しぶりに持ってみたら、なぜか気持ちが軽くなったの」
彼女の言葉が胸に染みた。
傘はずっと彼女の元にあった。
僕はただ、渡したまま、言葉を置き去りにしていたのだ。
🕊
コーヒーを飲み干したあと、駅前まで一緒に歩いた。
今度は、彼女の横に並んで。
6年前、黙って見送ったあの背中に、ようやく追いつけた気がした。
「今日はありがとう」
改札の前で、彼女がそう言った。
僕はうなずいた。
余計な言葉は要らなかった。
「また」
今度の“また”には、ちゃんと未来がある。
彼女が振り返らずに歩き出すのを、僕は静かに見送った。
けれどその背中は、もう過去のものじゃない。
いつでも声をかけられる距離にある──そう思えた。
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