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記憶を盗むカラスが“選ぶ人”の共通点

そのカラスが現れると、人は物を失わなかった。
財布も、鍵も、家も、何ひとつ盗まれない。
失われるのは、もっと曖昧なものだった。

町で最初に噂になったのは、パン屋の主人だった。
彼は毎朝、同じ時間に店を開け、同じ手順で生地をこねていた。
ところがある日、開店準備は完璧なのに、客に笑いかけることだけを忘れていた。
常連が声をかけても、主人は戸惑った顔をするだけだった。
まるで「親しみ」という感情だけが、抜け落ちたようだった。

その数日後、同じ症状の人間が増えた。
誰もが共通して、黒いカラスを見たと言った。
電線の上。
ゴミ集積所。
駅前の街灯。
カラスはただ、こちらを見下ろしていたという。
鳴き声も上げず、羽ばたきもせず、じっと人を見ていた。

被害者たちは口をそろえて言った。
「大事なものは、全部覚えている」と。
家族の名前も、仕事の手順も、過去の出来事も失っていない。
ただ、昨日まで当たり前だった感情だけが、思い出せなくなっていた。

誰かを好きだった理由。
大切にしていたはずの気持ち。
どうしてそれが必要だったのか。

町はざわついた。
不安は、やがて怒りに変わった。
誰かが言った。
「カラスを追い払えばいい」と。

けれど奇妙なことに、カラスは誰にでも姿を見せるわけではなかった。
現れるのは、決まって同じような人間の前だけだった。

毎日、同じ愚痴を言い。
同じ不満を抱え。
同じ言葉で「仕方がない」と繰り返す人間。
まるで、感情を使い切ってしまった人間を、選んでいるかのようだった。

青年は、町に越してきたばかりだった。
荷ほどきの途中、ベランダから見える電線に、黒い影が止まっているのに気づいた。
目が合った気がした。
それでも青年は、恐くならなかった。
むしろ、懐かしい感じがした。

青年には、手放したくないものがあった。
けれど、それが何なのかを説明できなかった。
思い出そうとすると、胸の奥に白い余白が広がる。
言葉が届かない場所に、置き去りにされたものがある。

その夜、青年は駅前の街灯の下で、またカラスを見た。
カラスは鳴かなかった。
かわりに、青年の足元に小さなものを落とした。
銀色に光るボタンだった。

青年はそれを拾い上げ、掌で転がした。
理由は分からないのに、涙だけが先に出た。

翌朝、青年は町の図書館に行った。
調べたい気持ちが、言葉より先に動いたからだ。

受付の女性に「カラスのことを」と言いかけて、青年は飲み込んだ。
説明すると、また余白が広がる気がした。

代わりに青年は、過去に似た噂がないか探した。
そして偶然、スマホで読んだ短い物語が脳裏に残った。
それは、毎朝動かないカラスが通学路で守っていた秘密という題だった。
読み終えたあとも、毎朝同じ場所で動かずに佇み、誰にも気づかれない役目を果たしていた黒い影だけが、目の裏に残った。

さらに、もう一つの物語が続けて浮かんだ。
動物が消えたあと、人だけが迷い続ける町の話だった。
それは、野良猫が消えた町で人だけが迷子になる理由という題で、読み進めるほどに「失われたのは場所ではなく、進む理由なのかもしれない」と思わされた。

青年は思った。
カラスは、何かを奪うために現れるのではない。
「奪われた」と人が感じるのは、もともと触れられなくなった記憶が、表に出ただけなのかもしれない。

数日後、町は少し静かになった。
感情を失った人たちは、怒らなくなった。
ただ、その静けさが優しさかどうかは、誰にも分からなかった。

青年は駅前のベンチに座った。
掌のボタンを握りしめる。
その瞬間だけ、確かに胸が痛む。
痛むということは、まだ失っていないということだ。

電線の上に、黒い影が止まった。
青年は顔を上げた。
カラスは、青年だけを見ている気がした。
「選ぶ」のではなく、「確かめる」目だった。

青年は小さく息を吐いた。
忘れてしまったのではない。
まだ、戻り道が見つかっていないだけだ。

カラスは一度だけ羽を広げた。
鳴き声はない。
それでも青年には、何かが返された気がした。

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読後に残った“あの余白”が、どんな形で埋まっていくのか。
本編では書けなかった、青年がボタンの持ち主に辿り着くまでの物語も含めてお届けします。

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