
ルナと葵、画面越しの約束
葵はカメラのシャッター音が好きだった📸
それは、静かな部屋の中で唯一「世界とつながっている」と感じられる音だった。
彼女の隣には、いつも真っ白なスコティッシュフォールドの猫・ルナがいた🐈⬛
「ルナ、今日も撮ろっか」
「にゃー」
ルナはまるで人間の言葉を理解しているように鳴いた。
その柔らかい毛並み、少し気まぐれな表情、そして“人間みたいな仕草”がSNSでバズり、今ではフォロワー数120万人の「猫インフルエンサー」になっていた✨
葵は朝の柔らかな光の中でカーテンを開け、レンズを覗き込む。
その瞬間、彼女の脳裏にはいつも、薄桃色の空に滲む一枚の写真が浮かぶ。
夜明けの写真みたいに、静かな始まりを切り取りたかった。
葵は企業案件を受け、動画編集や撮影スケジュールをこなす。
「ペット業界の新星」と呼ばれ、日々コメント欄には「ルナちゃん可愛い!」「癒やされました!」とメッセージが溢れた。
けれど葵の胸には、ある空白が広がっていた。
「……私じゃなくて、ルナが人気なんだよね」
その呟きは、カメラには届かない。
光り輝く画面の裏側に、葵自身の存在は徐々に霞んでいった。
🌙ある夜、撮影中にルナが突然、動かなくなった。
葵は慌てて駆け寄り、抱き上げた。
「ルナ!? ねぇ、どうしたの!」
病院の待合室で、葵は祈るようにルナの名前を呼び続けた。
診断は「ストレス性の神経症」。
医師は優しく言った。
「撮影やライトの刺激が、少し負担になっていたのかもしれません」
葵の指先が震えた。
「……ごめんね、ルナ」
帰宅した夜。
いつもはカメラを向ける場所に、ルナを抱きしめながら泣いた。
ルナは何も言わず、ただ小さく喉を鳴らしていた。
その音がまるで「もう無理しなくていいよ」と言っているようで、葵の心を優しく包み込んだ💧
🌕それから、アカウントの更新は止まった。
ファンの間では「ルナどうしたの?」「病気かな?」と憶測が飛び交う。
やがて“通知”は数の洪水となり、画面の向こうへと消えていく言葉だけが残った。
その静けさの中で、葵はふと思う。
――みんな、あの先に何を探しているんだろう。
消えたメッセージの続きを、誰が覚えているのだろうか。
葵はすべての通知をオフにして、ルナと過ごす静かな時間を取り戻した。
朝日は一緒に眺め、昼は並んで昼寝をし、夜には本を読みながら寄り添う。
窓辺には、ルナのお気に入りの場所がある。
そこに丸くなった背中があるだけで、家の時間がゆっくりと流れていくようだった。
薄いレースのカーテンを透かす光が床に模様を描き、影が小さく揺れる。
その穏やかな情景を見つめながら、葵は思う。
ここは、ルナと自分の時間が静かに交わる――定位置の窓辺だった。
「ねぇ、ルナ。インフルエンサーって、なんだったんだろうね」
「にゃー」
ルナは伸びをして、葵の膝の上に丸くなった。
葵は微笑んだ。
“この子が元気でいてくれたら、それでいい”
そう思えたとき、SNSの数字よりもずっと大切な“本当の幸福”がそこにあった🌸
🌅半年後。
葵は新しい動画を投稿した。
タイトルは「ただの、私とルナの日常」。
そこに広告も、ハッシュタグも、演出もない。
ただ一人と一匹が、ゆっくりと朝を迎えるだけの映像だった。
その夜、葵は机の上に置いた小さなインスタントカメラを手に取った。
窓の外では、満ちていく月が静かに街を照らしている。
彼女はそっとルナの寝顔にレンズを向けながら思った。
この白い縁の小さな紙片に、今日という一日を閉じ込められたら――。
シャッターを切る瞬間、ふと胸の中に言葉が浮かんだ。
月の光とポラロイドのやわらかな白が重なり合うように、静かで温かな題名だった。
それはまるで、この時間そのものを写すような一言。
満月とポラロイド――そう名づけたくなる夜だった。
コメント欄には「久しぶりに涙が出た」「本物の愛を感じた」と書かれていた。
数字を追いかけることをやめた瞬間、彼女たちの物語は再び息を吹き返した。
「ねぇ、ルナ」
「にゃー」
「次は、誰かのためじゃなくて、自分たちのために撮ろっか」
葵の言葉に、ルナの瞳がきらめいた✨
カメラのシャッター音が再び響く。
けれどその音は、もう“つながるため”ではなかった。
“いまを残すため”の音になっていた。
🌙やがて画面の中のルナは老いていった。
白い毛が少しずつ灰色に変わり、足取りもゆっくりになった。
でも、その存在は変わらず葵の世界の中心にあった。
ある春の朝、ルナは静かに葵の腕の中で眠るように旅立った。
葵は泣きながら、カメラを回した。
「ありがとう、ルナ。あなたが教えてくれたよ。“誰かに見せるため”じゃなくて、“誰かと生きるため”に私は写真を撮るんだって」
その動画の最後、画面の隅に一行の文字が静かに浮かんだ。
派手な演出も、音もない。
ただ淡い余韻の中で、その言葉だけが穏やかに流れていく。
それはまるで、ルナが葵に代わって想いを伝えているかのようだった。
――ありがとう、と続くように滲む最後のひと言が、ゆっくりと画面の光に溶けていった。
それは再生回数よりも、どんなトレンドよりも、ずっと深く誰かの心に残る言葉だった。
🌸数年後。
葵はフォトグラファーとして活動を続けていた。
彼女の新しい展示会のテーマは「Life Behind the Lens ― レンズの向こうの命たち」。
そこには、動物たちの“裏側”の表情が丁寧に切り取られていた。
見に来た人々は、ただ静かに涙をぬぐった。
会場の隅には、あのルナの写真が飾られている。
そこには説明文が一つだけ。
「この子が、私を“インフルエンサー”から“人間”に戻してくれた。」
葵は笑って空を見上げた。
春の風が頬を撫で、どこかで「にゃー」と聞こえた気がした🌤️


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