
「雨と初恋の欠片」
雨の匂いが、ふと立ち止まらせた。
アスファルトに落ちる雨粒の音が、記憶の扉をノックする。
傘を持たない私は、濡れた髪を気にしながら駅のホームに立っていた。
“雨の日には必ず傘を貸してくれたあの人”。
目を閉じると、彼女の笑顔が浮かぶ。
最後に見たのは、いつだったのだろう。
あの日も、こうして雨が降っていた。
突然、スマートフォンが震えた。
画面には見慣れない名前。
“知らない番号からの着信”。
躊躇いながらも通話ボタンを押す。
「もしもし…」
返ってきたのは、懐かしい声。
「久しぶり。元気にしてた?」
心臓が跳ね上がる。思わず声が詰まる。
「どうして今…急に?」
「たまたま近くに来て…どうしても話したくて」
その声は、あの頃と変わらない優しさに満ちていた。
胸が締め付けられる感覚とともに、雨の匂いが深く沁み渡る。
改札の向こうに、彼女の姿があった。
微かに濡れた髪、そして手に持つ一本の傘。
それは、かつて私が彼女にあげたものだった。
目が合う。
彼女は軽く微笑んで、手を振った。
だが、その瞬間、足元の水たまりに映る彼女の姿が揺れる。
目をこらすが、彼女の姿はどこにもない。
ただ、そこには一本の傘だけが残されていた。
開いた傘の裏地に、小さな文字が書かれている。
「忘れないでね」 雨の匂いが、また強くなった。
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