
逃げ道はEnterの先に⌨️
入社して5年目。
プログラマーの翔太は、いつものように午前7時半に会社のパソコンを立ち上げた。
冷房の効いたオフィス。
デスクに置かれた名札には「〇〇株式会社」のロゴ。
その隣には……銀色の手錠。
そう、左手首は会社の看板に物理的につながれていた。
入社時に交わした「終身雇用契約書」には、“忠誠の証”として手錠をつけることが義務と書かれていた。
最初はパフォーマンスだと思っていた。
でも、鍵は渡されなかった。
「ほら、安心でしょ?一生働けるなんて、今どき幸せだよ」
部長の笑顔が、今では一番怖い。
翔太は、エンターキーを打つたびに思う。
「この一打で、自分の人生も決まっていくんだろうな」
会社のネットワークにアクセスすると、ひとつのポップアップが現れた。
「本日も終身雇用、お疲れ様です😊」
脳裏に響く鎖の音。
その日、翔太のマウスが突然動かなくなった。
強制アップデート。
画面にはこう表示された。
《終身勤務 更新中……100年分 残り99年と364日》
――そんな馬鹿な。
「ちょっと!このシステムバグってません!?」
そう叫ぶと、隣の席の佐藤先輩が静かに振り向いた。
「翔太、お前……見えるのか?」
佐藤の左手首にも、鈍く光る手錠があった。
「俺も、気づいたらこの“鎖の世界”にいた。
たぶん、自分の異常に気づいたやつだけが、この手錠の意味を理解できるんだ」
翔太は青ざめた。
“ここ”って、つまり心の檻ってことか。
「……逃げられないのか?」
佐藤は、ふっと笑った。
「いや、逃げ道はある。
ただし、見つけるのはエンターキーの先だ」
翔太は、もう一度キーボードを見つめた。
その瞬間、なぜかエンターキーがぐらついて見えた。
彼は静かに左手を動かし、手錠の鎖がピンと張る中、エンターキーをそっと押し込んだ。
カチッ――
ディスプレイがまばゆく光り、画面は次の瞬間、どこまでも続く草原へと変わった。
それは映像ではなく、翔太にはあちら側とこちら側を分ける扉に見えた。
その奥に、先に“脱出”した人々の影がゆらゆらと揺れていた。
翔太は、初めて笑った。
それは、彼自身がプログラムの外へ飛び出した瞬間だった。
翌朝、翔太の席は空のままだった。
誰も彼の退職願を見た者はいない。
ただ、彼のキーボードのエンターキーだけが、ぽっきり折れていたという。
「……逃げたのか、あいつ」
部長がつぶやくと、課長は静かにうなずいた。
「自由ってのは、壊してでも手に入れるもんなんだな」
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