笑顔が足りない朝に
「今日も完璧だったかな？」
朝の光が差し込む部屋の中、まどかは鏡を見ながらつぶやいた。
鏡の中には八方向に自分の表情を映し出す特殊な鏡――通称「八方ミラー」。
笑顔、驚き、困惑、ウィンク、涙目、無表情、怒り顔、そして“最高の営業スマイル”。
どこから見ても「感じのいい自分」でいられるよう、彼女は毎朝練習していた。
SNSでは「いつも明るい」「誰にでも優しい」「癒される」と絶賛される彼女。
でも、その鏡の中のひとつにだけ、誰にも見せたことのない「素顔」があった。
＊
「まどかさん、今日の会議もすごかったです！ あんなに上手く場を回せるなんて」
「えへへ、ありがとう😊」
いつものように笑顔を返すが、まどかの心は少しだけチクっとした。
「本当の私は、どれなんだろう」
そう思うたび、鏡に映る八つの顔が騒ぎ出す気がした。
＊
そんなある日、後輩の新入社員・大地が声をかけてきた。
「まどかさん、これ落としましたよ」
差し出されたのは、まどかのスマホ。
画面にはうっかり開いたままの「八方ミラー」アプリの練習画面が。
「あっ、それ……」
「僕、全部の表情より、この“真顔”のまどかさん、けっこう好きです」
不意打ちだった。
八方どころか一方向も見失った気がした。
「……それ、褒めてる？」
「もちろん」
照れ隠しに笑おうとしたが、まどかはふと、笑顔をやめてみた。
すると大地は、ふっと優しく微笑んだ。
「八方美人もいいけど、ひとつだけの顔も、たまには見せてくださいね」
その言葉は、鏡越しではなく、真正面から心に届いた。
＊
その夜、まどかは初めて「八方ミラー」を閉じた。
そしてスマホのインカメラを立ち上げて、自然な自分を見つめた。
そこには、誰にも媚びない、誰にも飾らない、“ただの自分”がいた。
思わず呟いた。
「……まあ、これも悪くないかも」
その瞬間、まどかの中の“本当の八方美人”が目を覚ました。
＊
次の日。
大地に近づいて、まどかは軽く笑った。
「今日はちょっと、八方じゃない美人でいくわね」
「それ、期待してます」
朝の日差しが、二人の会話をやさしく包み込んだ。
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