
見つめ返す勇気
日曜の朝。
窓から差し込む光がリビングをゆっくり温めていく。
テーブルにマグカップ、床には丸まったブランケット。
そして正面、ソファの中央に、うちの柴犬・ポチが鎮座している。
背すじはピン、耳はぴんと立ち、黒目がちな目はまっすぐこちら。
スマホを手にした僕を、まるでスタジオのモデルみたいに見つめる。
「ポチ、撮るよ」
シャッター音が鳴る瞬間、ポチはほんの少しだけ顎を上げる。
光を拾う角度を知っているかのように。
SNSに上げると、「プロ」「モデル犬」「目で会話してる」とコメントがつく。
けれど最近、僕は少し怖くなっていた。
ポチは、撮る前からカメラのレンズを射抜くように見ている。
まるで、僕の気持ちごと覗き込むみたいに。
「なあ、ポチ。お前……カメラの向こうの僕まで見てるのか?」
ポチはしっぽを一度だけふり、鼻を小さく鳴らした。
肯定とも否定ともつかない、あいまいな返事。
その曖昧さに救われる日もあるし、余計に不安になる夜もある。
月曜。
会社の会議室は、蛍光灯の明かりがやけに冷たい。
資料を投影しながら上司が言う。
「佐山、この数字の根拠は?」
「えっと……」
「えっと、じゃない。目線はこっちだ」
そう言われて僕ははっとする。
気づけば、会議室のスクリーンに映るグラフではなく、テーブルの上のスマホを見ていた。
画面には今朝のポチ。
完璧なカメラ目線。
その目が「今日は大丈夫?」と訊いている気がして。
昼休み。
同僚の近藤が肩を叩く。
「なあ、佐山。お前んちの柴犬さ、やけに目が合うよな。あれ、どうやって撮ってる?」
「どうって……構えるだけで、向こうが合わせてくる」
「合わせてくる? 犬が? もしかして流行りの“リモート散歩”とかやってる?」
近藤が見せてきた記事のタイトルに、僕は思わず笑った。
リモートペット散歩でまさかのバズり犬。
飼い主の代わりにオンラインで散歩をつなぐサービスで、どこでも推しの犬と歩けるという。
「そんなことでバズるのか」と鼻で笑いつつ、心のどこかで“ポチが歩いたら映えるだろうな”とも思ってしまう。
それほどポチの目線は、人の気持ちを動かす。
帰宅すると、リビングの棚に小さな箱が増えていた。
丸いレンズと淡いLED。
妻がリモコンを手にして言う。
「モニター付きスピーカーだって。声も出るんだって。会社の抽選で当たったの。留守番のポチの表情を解析して、気分を言葉で教えてくれるらしいよ」
「また新しいのを……」
文句を言いかけたところで、箱が小さく光った。
優しい合成音が響く。
『こんにちは。ポチは、あなたを観察中です』
観察、という言い方に少し笑ってしまう。
けれど、それからの日々、僕は本当に“観察されている”気分になった。
朝、出勤前。
玄関のドアノブを回すと、足元で「キュン」と鳴く音。
見下ろすと、ポチがまっすぐ僕を見ている。
視線が「無理しないで」と言う。
僕は笑って頭をなでる。
「行ってくる。帰ったら散歩、二駅分、遠回りしよう」
昼、PCの通知が震える。
『ポチがあなたを見ています』
『ポチはあなたの笑顔を確認しました』
『ポチがあなたの残業を心配しています』
まるで恋人より忠実なスパイ。
僕はふと、別の記事を思い出す。
言葉が通じたら、どれほどのことを犬は教えてくれるのだろう。
リンクを開く指が止まらない。
ペット翻訳チャット犬が送った初めての既読。
“既読”という言葉が胸に刺さる。
僕も、ポチからのサインをちゃんと既読にできているのだろうか。
その夜。
家に帰ると、リビングの明かりが落とされ、窓の外から月が覗いていた。
ポチはテーブルの上のスマホをじっと見ている。
画面には、昼に僕が投げた仕事用メッセージアプリ。
返信は、まだできていない。
金曜の夜に流れてきた“修正お願いします”を、僕は既読のまま見なかったことにしていた。
「ポチ、どう思う?」
問いかけると、ポチは鼻を鳴らし、スマホの前まで歩く。
レンズに鼻先を、そっと押し当てる。
画面の僕の“ため息顔”に、レンズ越しのポチの黒い鼻が、ちょん。
不思議なことに、僕の顔が少しだけ柔らぐ。
まるで画面の向こうの僕が、ポチに微笑み返したみたいに。
『ポチは、あなたの孤独を保存しました』
箱の合成音がそう告げたとき、胸のなかで何かがほどけた。
僕はポチの背中を撫で、深く息をつく。
「ありがとな。……明日は、早起きして公園に行くか」
土曜の朝。
まだ人の少ない河川敷。
草の匂い、遠くで少年野球の掛け声。
僕はスマホを構え、ポチに声をかける。
「ポチ、走るぞ」
走り出したポチは、茂みを抜け、花壇をくるり。
振り返って、ぴたりと目線をこちらに合わせる。
シャッター。
またシャッター。
連写の音が軽快に響くたび、心のどこかの張りつめた糸が緩んでいく。
「おーい、写真うまいですね!」
ジョギング中の男性に声をかけられた。
彼は笑って親指を立てる。
「目線、完璧。モデルさん?」
「ええ、うちの大事な家族で」
僕がそう答えると、ポチが得意げに鼻を鳴らす。
帰り道、ベンチで休憩していると、隣のカップルがスマホを見せ合って笑っていた。
画面には、カフェのカウンターに座る猫が胸を張る写真。
「こんなのあるんだ」と思わずのぞき込む。
カフェ猫バイト|気まぐれ猫が店を救う。
猫が看板アルバイトとして店を盛り上げる物語。
「動物が人の毎日を救う」なんて、ありふれてるはずなのに、読むだけで肩の力が抜ける。
ちょっと羨ましい。
うちのポチも、誰かの小さな救いになれているだろうか。
日曜の夕方。
僕はふと思い立って、ポチの写真をまとめてフォルダに入れ、スライドショーを作った。
タイトルは「見つめ返す勇気」。
ポチの目線に、僕が笑い返すだけのシンプルな連続写真。
BGMは、リビングの箱から流れる柔らかなピアノ。
スクリーンに映るのは、河川敷で風に耳を揺らすポチ、公園の階段でちょこんと座るポチ、雨の日の窓辺で外を眺めるポチ。
どの写真にも、僕の笑顔が必ず一緒に写り込んでいる。
レンズの向こうの僕が、僕自身に「大丈夫だ」と言っているようで。
再生を止めると、ポチが僕の膝に顎を置いた。
じっと見つめる。
いつもの“撮られる側”の目線じゃない。
“撮る側”の目線。
僕の心のピントを合わせてくる。
「ポチ」
名前を呼ぶと、しっぽがぽふぽふとソファに当たる。
僕は笑って、スマホを反転し、インカメラに切り替えた。
レンズの中の僕は、どこか照れた顔をしている。
その隣で、ポチがいつものように正面を見据える。
「はい、ポーズ」
シャッター音。
と同時に、箱がつぶやく。
『ポチは、あなたの笑顔を保存しました』
僕は思わず吹き出す。
「保存か。じゃあ、バックアップも頼む」
ポチが「ワン」と短く吠え、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
ふと思い出し、僕は未返信の仕事メッセージを開く。
「遅くなってすみません。こちらの案で修正します」
送信ボタンを押すと、胸にひとつ、静かな空洞ができた。
そこに風が通り抜ける。
張りつめていた自分の中の“レンズ”が、やっと柔らかな焦点に戻った気がした。
夜。
窓の外では、マンションの向こうに月が顔を出す。
僕はポチの横に座り、軽く肩を寄せる。
「なあ、ポチ。お前はどうして、そんなにカメラを見るんだ?」
問いかけると、ポチは小首をかしげ、レンズではなく僕の目を見た。
その瞳に映る僕は、思っていたより優しい顔をしている。
「そっか。お前が見てるのは、レンズじゃなくて、僕なんだな」
合成音は何も言わなかった。
けれど、理解はもう十分だった。
僕はスマホをソファに置き、ポチの耳の後ろをかく。
静かな時間が流れる。
目線が合ったまま、呼吸だけがゆっくり揃っていく。
翌週、僕は写真をまとめてSNSにあげた。
タイトルはシンプルに「#カメラ目線犬」。
コメント欄に、たくさんの“既読”が並ぶ。
目が合うたびに、気持ちも合う気がします
犬の視線って、優しさの言語ですね
うちの子も見つめてくる。見返してあげたくなった
返信を書こうとして、手を止める。
僕の代わりに、ポチが画面をじっと見つめているから。
その瞳に、照明の丸い光と、僕の笑顔が小さく映り込んでいる。
ポチは、今日も完璧なカメラ目線だ。
でもその目線は、世界へではなく、ただ一人の僕へ向かっている。
「ありがとな、カメラ目線犬」
声に出すと、ポチは小さくあくびをして、僕の膝に顔をのせた。
僕はそっと背中に手を置く。
レンズの電源は切ってある。
それでも、目線は確かに繋がっていた。
その夜。
眠る前に、ふと壁のフックに掛けたリードが目に入る。
明日はどこを歩こう。
川沿いの道もいいけれど、商店街のパン屋の角で漂うバターの匂いも捨てがたい。
知らない路地を曲がって、見たことのない朝焼けの色を拾うのもいい。
僕とポチが並んで歩けば、きっとどこも“お気に入りの場所”になる。
目線が合うたびに、今日という日が保存されていく。
レンズの向こうでも、こちら側でもない、ちょうど真ん中に。
「おやすみ、ポチ」
「ワン」
短い返事。
それだけで十分だった。
僕は目を閉じ、明日のシャッター音を想像しながら、静かに眠りに落ちた。ん。でも、カメラ目線が完璧で……」
「知らん!」
会議室に笑いが起きた。
同僚がひそひそと「犬インフルエンサーにでもなる気か?」と茶化す。
まさか、うちの犬がすでにAI犬インフルエンサーだったなんて、このときはまだ知らなかった。
帰宅すると、リビングが少しだけ違う。
ポチの前に見慣れないデバイス。
丸いカメラ付きの小型スピーカーが光っていた。
「ポチカムAI β版」と書かれている。
妻が出てきて言う。
「ねぇ、それ会社からもらったの。犬の表情を解析して気分を言葉で出してくれるんだって」
「へぇ、便利……いや、ちょっと待って。勝手にそんなの設置していいの?」
「だって、かわいいじゃん」
ポチがこちらを見つめ、スピーカーから声が出た。
『ポチは、あなたを観察中です』
「観察……?」
妻が笑いながら言う。
「たぶん、“見つめてる”って意味よ。かわいいでしょ」
だが、その日を境に、ポチは本当に“観察者”になった。
出勤前にスマホを見れば、ポチが留守番カメラに向かってじっと見つめている。
仕事の合間に通知が届く。
『ポチがあなたを見ています。』
『ポチはあなたの笑顔を確認しました。』
『ポチがあなたの残業時間を心配しています。』
AIペット管理アプリから届く“愛の監視報告”。
まるで、恋人よりも忠実なスパイだ。
週末、さすがに不安になって設定を確認すると、ポチのアカウントには見知らぬフォロワーが数千人。
「#見返してポチ」「#視線の哲学犬」など、妙なタグが付いていた。
コメント欄には——
この犬、撮られる側じゃなくて“撮ってる側”だ。
目線が人間を解析してる。
何かを知ってる。
寒気がした。
うちの犬がSNSを“使ってる側”……?
その夜。
ベッドに入っても眠れず、リビングに降りると、暗闇の中でポチがスマホを見つめていた。
画面には、僕の寝顔。
「いつ撮ったんだ?」と思う間もなく、スピーカーがつぶやいた。
『ポチはあなたの孤独を記録しています』
僕は息をのんだ。
「おい、ポチ……お前、なんでそんなこと——」
するとポチが一歩近づき、画面に自分の鼻を押し当てた。
その瞬間、スマホの中に映る僕が笑った。
いや、笑ってくれたのだ。
画面越しの僕は、疲れた顔をしていた。
仕事で叱られ、ポチにすら不安をぶつけた僕に、画面の中の「もう一人の自分」がやさしく微笑んでいた。
ポチは、ただ“レンズの向こう”の僕に笑ってほしかっただけなのかもしれない。
次の日から、僕は変わった。
写真を撮るとき、ポチがカメラを見つめる前に、僕が先に笑うようにした。
「はい、ポチ。今日もいくぞ〜」
シャッター音。
ポチのしっぽがふるふると揺れる。
SNSには今日も「完璧な目線」が並ぶ。
でもその奥には、ちょっとだけ違う“絆”が写っている。
コメント欄には、こんな言葉が並ぶようになった。
目が合った瞬間、心があったかくなる。
この犬、人間よりも人間らしい。
夜。
ポチはいつものように足元で丸くなり、スピーカーが静かに言った。
『ポチは、あなたの笑顔を保存しました。』
僕は思わず笑ってつぶやいた。
「ありがとな、カメラ目線犬」
ポチが小さく“ワン”と鳴いた。
きっとそれは、「お前も見返せよ」って意味だ。


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